20170131

鬼はぁ〜ウチ

もうすぐ節分。
節分といえば、豆まき
ものごころがついた頃にはやっていたとおもう。
豆まきの由来というのも、一説によれば
かなりひどい話でおそろしいことでもある。

なにごとも、どこまで歴史を紐解けば真実が見えてくるのかを考えると気が遠くなるけど
オリジナルの日本というのは縄文時代まで、ということになるだろう。
もちろんその時代の様子をこの目で見ることは難しいけど
人類史上稀に見る調和が保たれていた、そんな風にいわれることもおおい。
ひとくちに縄文時代といっても一万年規模の長い時間をさすので
その初期と後期では人々の意識にもギャップがあることも考えられる。
その要因は外的なものも内的なものもあるのかな?

前回の投稿で触れたカタカムナ。
歴史的にみれば、その解読や研究はつい最近のことだ。
これが異端とされてきたことは、これが世にでることはだれかにとって不都合があるからだろう。
不都合を隠したい勢力というのはいつの時代もいるようです。
そのカタカムナがこの数十年の間に、世の中に出てきたことはとても興味深い。
もちろん、カタカムナがどんなものか知識としてみにつけるだけではあまり意味がなく
それを踏まえてどう生きていくのかが、最近の自分の興味のいくところです。

おもしろい投稿を読んだのでリンクを貼っておきます

誰かが書いた文章は情報であり、
なんらかのバイアスがかかっていることはあるいみ自然なこと
そこを踏まえても楽しめる文章だと思いました、ちょっと長いけど。

最後に鬼の話。
鬼はもともとは人間の心に住んでいるもの。
ひとりひとりが、心を磨いているかをみる係。
ちゃんとしてればこわくない存在。
だから鬼はウチなんだとさ
福もウチ?
場所によってはそういうところもあるようだけど
鬼はウチ、福はみんなでシェアしましょう。

このくらいが現代的なかんじなのかな?

20170123

必要なものは何?

日本の物価にもだいぶ慣れてきたけど、
頭の中は何かモヤモヤした感じがつづいている。
それも、自分の思考がそのようにしていることとわかりつつも
抜け出せなくてすっきりしない時間が続いていた。
そんな中、久しぶりに新しくワクワクする出来事があったので記録。

あまりにも目の前のことばかりに思考が囚われているとおもい
すこし視点をかえて考えてみた。
仮に、70歳まで生きられるとして残りの時間は22年、今の自分に必要なものを考えた。

真っ先に浮かんだことは、安心できる食料とカタカムナのふたつだった。
自分で安心できる作物を作って食べるという経験はほぼない、といっていいけど
自分のまわりには実践している人たちがいるので生活環境を変えることができれば
手に入れることができると考えられる。

カタカムナは、平たく言えば
13000年前に今の日本にいた人たちが残した宇宙の物理学、と言っていいと思う。
その存在を知ってから20年以上経過しているのにもかかわらず
いまだに深く探究するということができていない。
なぜ自分がそこに惹かれるかは直感としかいえない。

2年ほど前に知人が書いた文章で、カタカムナに関することでそれまでに読んだ中で
一番わかりやすいと思えたものがあったことを思い出した。
投稿主は木の花ファミリーというコミュニティで暮らしている。
そのコミュニティーの存在は知っていたけど
どんなところかは知らなかったので一泊二日で体感してきました。

安心できる農とカタカムナが大きな柱となっている
エコヴィレッジということばがしっくりくるコミュニティ。
その柱を支えているのは、住人ひとりひとりがこころを磨くという生きることに対する姿勢。
世間一般の感覚からいえば、一線を越えた生き方といえるかもしれないけど
その一線というのは、自我を超える、ということなのだな、というのが感想。
これは、木の花ファミリーのホームページをみても読み取ることができることなので
看板に偽りなし、ということだ。

今の自分に必要なことは、自我を越えていくこと、という結論。
これって、ことばにすると凄すぎてよくわからないけど
どんなことも、視点によって感じ方、捉え方が変わるということを
身につけることがポイントなのかと。。。
ワクワク感をもって実践していくべし。

滞在中に、木の花ファミリーが3月にオープンするアンテナショップ(カフェ)で
自分の作品を扱ってもらえる、という話のながれも出来たのでさっそくワクワクしている。
これからよい関係を築いていきたいです。

現状、日本で作品を扱っていただいている唯一の場所
Cultuart by BEAMSとは対照的な場所にみえるけど
両者に共通していることは、世界に向けて発信できている場所、といえる。
ありがたいことでこれまたワクワクします。

最後に、木の花ファミリーの中心的人物である「いさドン」のブログをリンクしておきます。
これは、トランプ米新大統領の就任式の日の投稿です。
ぶれない視点、大事だと痛感します。

20170113

高齢化社会とAI <老人Z >

介護ロボットの話題が目につく。
実家で生活していると、隣人の話しを耳にしたり
実際に両親をみて老いていくことがどういうことか、を
まのあたりにすると同時に介護というテーマは現実味をおびる。
両親はいまのところ介護を必要としてはいなくても。
もちろん、自分の肉体をとおしても年を重ねるということが
どういうことなのかも感じる。

介護ロボットといえば「老人Z」というアニメ映画がある。
高齢化社会とAIをテーマにした25年以上前の作品。
時が経てば経つほどリアリティがますようにも思える。
現状としては問題は深刻化していくし、
さらなる社会問題が表出していくようにうつる。
それは一部の人間にとって、それらの問題も資源ととらえているようにすら感じるわけで。

そういった人たちがAIの進化とか導入に積極的なのは容易に理解できるけど
AIに関して否定的な意見というのを目にする機会はあまりない。
裏のことも論じる人たちもAIが導入された社会の話しばかり。
確かに脳は情報を処理している器官といっていいかもしれないけど
クラウドで学習する知能と言われてもそこには疑問しか残らない。
思考や情報でない部分で感じることや
気配といったらいいのかな?
具体的に説明できない部分で判断しているのが人間だとおもっている。
そういう、アカデミックな場では説明が難しいところを切り捨ててもいいと
考えている人でなければAIを開発しようとはならないようにもおもえる。
そういった部分も考慮してます、といわれても
プログラムの根本的な部分に誰かの意図が混入しているはずだともおもっている。

結局アニメーションの方がリアルにおもえる不思議な世の中。笑
おかしいな、子供の頃はアニメはフィクションだったのだけど。

久しぶりにエヴァンゲリオンみなおしてみようかな、、、

20170110

ひさびさの物欲

そそられる
というか、すでにかなりそそられてる。笑
どうしても今すぐほしい、というわけではない。。。
実際、経験があるかといえばないに等しいし
持って移動するの難儀だしね。
2年前に触った時は5分で指が痛くなったけど
昨年末はそれもなかったのが大きな要因。
現在の自分のスペースでいつでも音を出せるかといえば
それも難しいので、今すぐでなくていいと思えている。
物欲というよりは、音とたわむれたい欲求。
ということで、版画。
紙の上は自由だ。